花束みたいな恋をした
好きなものを上手に語れる人はモテます。
これ持論なのですが、好きなものって理由を説明しづらいんですよね。食べ物にしても映画にしてもなんにしても。なんとなく感覚で「好き」ってことが多い。
たとえば「餃子」が好きな場合、「美味しいから」ってのは当たり前で、そこに「中華料理屋だけじゃなくてラーメン屋とか居酒屋とかどこにでもあって、それぞれ違う顔があって面白いじゃないですか。それに酢に胡椒だけとかタレを工夫すればまた味が変わっておもしろいし」って加えると、「あ、この人お酒飲むんだ」とか「ラーメン好きなんだ」とか「酢に胡椒だけ?おいしそう!」みたいなポジティブ好き情報が盛り込まれる。そうすると、話聞いている側は、一つでも好きな共通点があれば「一緒だっ」てなるんすよね。
反対に嫌いなものばかりを語る人はモテない。
「嫌い」は理由が明確なんで、語りやすいんすよ。
餃子嫌いなやつがいたとして「大衆っぽさが、、、中国の食い物でしょ?酢も臭くて嫌いだし」とか目の前で言ってたら、締め落としてやるんですが、知らずに相手の「好き」を否定してる可能性があるんですよね。この人と一緒だと餃子食べられないんだとか。嫌いを語ると、自分から相手と距離を離して、自分で「合わない」を演出してしまう。モテない人の出来上がり。ま、聞く側の気分が良くないですよね。
といっても、この「モテ」ってのは「好まれやすい」ってだけで、恋愛が上手いかどうかは別の話。
付き合うと、相手の嫌いも見えてくるし知ることになる。
付き合うってのは、そんな相手と少しずつ擦り合わせながら、日々生活を重ねていくことかなと思います。
相手に合わせて嘘で見繕う事もできるけど、しんどいんですよね。好きだけじゃなかなか難しい。
この「花束みたいな恋をした」は、好きなものを語りあう二人が、ただただ描かれているから、本当に尊い。
二人から出てくるとんでもない数の固有名詞にひとつでも引っ掛かれば、二人が好きになる。それは音楽や漫画や小説以外にも場所や食べ物、仕草、時間もそう。
5年もあれば、生活のフェーズや会う人や環境も考えも変わる。好きなものが変わっていくのも当たり前。変わらず、ずっと同じものを好きな人がいても当たり前。
そして、そのすれ違いに心をゆらゆら揺らがされるのも、映画の中の二人とリンクしてしまう。
好きなものでつながり続けるって難しい。
そうだった時は楽しいから、そうでない話の時のギャップもまた深い。
そんな時の変化もいつかの誰かを見ているかのようで尊い。それは楽しかったし。
何かを思い出させるような二人の5年を見せてもらってありがとうございます!という感謝の思いで溢れました。いっぱいです。
何について語っていたかなんてどうでも良くて、好きなものについて話し合ってる人達って、見てるだけで楽しいんですよね。
そして、そんな相手がいるってめちゃくちゃ幸せなんですよ。
満たされました。
フィクションなのにここまでリアルで自然なのがもう圧倒的に凄かったです。
次回作の話題もあるようですが、
麦が仕事辞めて、イラストをまた描き始めて、少し有名になって、麦のトークショーを見に来ていた絹(既婚・子あり)と、次の仕事までの空き時間の2時間散歩しながら話す。
というビフォアサンセットまるパクリの映画やってほしいすね。
坂元裕二は神。
96点!